みっすーのブログ 〜こくごであそぼ(仮)

夏になるとブログを始める癖があります。書きたいものをただ書きたいように書くだけのブログ。八幡さまにおみくじで、何度も言うけど国語な!って言われたきっかけで、こくごであそぼ!が仮題。深い意味は全くございませぬ。

うまく付き合う「誰が言うか」と「何を言うか」問題

どうも、ライフシェルパのみすずです。

 

引っ越し早々、ちょっとこっちで朝からやることがあり、昨日は東京におりましたー。

 

朝の東海道線がすごいと聞いて、まだ体験はしてないものの、時間が被る時がこないように祈るばかり。がくぶるです。

 

混雑で傘が折れるって!

傘おれるってことは骨も折れるやん!こわすぎる!!

 

 

さて、本日のテーマは、誰かとこないだ話してた時に、口から出てて、や、ほんまそうだよなーと認識し直したことがあったので書くことにします。

 

■「人」と「コト」

「何をやるか」じゃない、「誰とやるか」だ

 

ばーん!

 

「何を言うか」じゃない、「誰が言うかだ」

 

ばばーん!!

みたいなこと、よく聞いたり目にしたりします。

 

ここ数年の変化の旅を経て、この「誰といるか」の持つ力は、ものすごく感じるところでして。その時一緒にいたみんなが、本当に今のわたしをつくるすべての影響を与えてくれた。

だから今自然体で、力抜いて、なんでもありーと思って、笑って生きてられる。

 

きっと違う人たちといたら、違う自分だったかもしれない。
少なくとも、変化のプロセスはまた違うものを辿ったんだろうなと。

そうおもうたびに、ほんとありがたいなぁ。。と深くしみじみとします。

 

なので、この「誰といるか」はもう人生最大の影響強め要因であることは、ものすごく思うところであります。

ということで、今、冒頭で書いたみたいに、「コト」軸より「ヒト」軸だ!と語られる場面ちょいちょい見るなと感じているのです。

 

でも、これ、影響が強いだけに、とっても気をつけないと行けないなー、と思ったことがあるので、それについて書きます。

 

■「出し手側の意図」と「受け手側の賢さ」

「誰が言うか」

 

これって、いくら内容は同じで、素晴らしいことを言ってても、

・有名な、誰でも知ってる実績のあるAさん
・実績はあっても、マイナーなBさん

この2人が同じことを言った時の、受け手側の反応って往々にして違うわけです。

 

Aさんが言うと、

「さすが」

「やっぱり経験が違う」

「しみるー」

みたいに、受け取られやすい。なんか、ありがたい感じ。

イメージ、堀江さんとか。

 

かたや、普通のBさん。

「そうなのか」

「そうだよね」

って感じで、あんまりバズってるイメージがしない。

 

みたいなの、よく見かけるんじゃないかと思います。

 

ほんで、ここで気をつけたいのは、発信する側の出し手って、発信主体が自分の主張の場合もあれば、まあ違う場合もある。

 

そこに、発信側の意図が往々にして含まれる。そんな場合もあるのかなと思います。

そしたら、そりゃ「影響力」のある人から言わせたい、みたいなのもありますよね。
これってメディアとかだけじゃなくて日常や仕事でもばんばん普通に存在する場面だなと。

 

同じ知識があっても、
・母親から言われる
・専門家から言われる

この2人から言われら、母親の言うことは聞けなくても、専門家の言うことなら聞ける、みたいなのもあると思うのです。

 

でも、見落としちゃいけないのは、この場合、母親も「同じ、大事なコト」を語ってる、というところ。

 

これまでは実績がなくて、まだ影響力のないBさんだって、めちゃいいコトも語る。普通に。

 

「誰が言うか」
その「ヒト」のイメージだけに縛られたら、大切な内容である「コト」を受け取り損ねることもある、って、自分が知っておくことがすごい大切な気がします。


【自分が発信する側である時】

特に、一番効果的に伝えたいと思ったら、
・自分が直接いうのがいいのか
・誰か、影響力のある人から言ってもらうのがいいのか
とか、たぶん考えると思うんです。

「ここはひとつ、部長から言ってもらおう!」とか、そういうやつ。
入社したての中途社員が言っても受け入れられない!みたいなやつ。


しかける側だとこういうのってすごい繊細に考えるんですけど、受け取り手になった時こそ、大事。


そういう風に、「誰が言うか」に効果があるっていうことは、無意識レベルでその前提が入ってる。
でも、本当は、「大事なコト」って、誰がいったって大事な内容のはず。


【自分が受信する側である時】

発信される情報は、そういう”意図”も往々にしてよく含まれる。

 

大事なのは、誰が発信していようとも、「その内容の本質」をすっと受け入れる人でいられる受信力とか、受信の質とか。

 

植物や赤ちゃんからも学ぶというか、それって素直さなのだろうか。

 

誰が言ってなくても、「いいと思う」ものを「いい」ってちゃんと言える軸というか。

 

そういう、なんだろう、余計なもののない審美眼って、すごく美しいし、尊いって感じます。

 

ということで、「ヒト」要因に価値を置きすぎて、大切な「コト」をうまく取り込めなくならないように、ちゃんと自分のセンサーを働かせておきたいものです。